大徳寺
大徳寺
臨済宗大徳寺派の大本山で龍宝山と号する。鎌倉時代末期の正和4年(1315)に播州の守護赤松円心の寄進により大燈国師宗峰妙超が開創。後に花園天皇と後醍醐天皇の厚い帰依を受け南北両朝の勅願寺となった。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提をとむらうために総見院を建立併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。勅使門から山門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他を合わせいわゆる七堂伽藍が完備する。天正17年(1589)に千利休によって山門の二階部分が増築され金毛閣と名付けられ、堂内に利休の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休自決の一因となったと言われる。本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第遺構の唐門(国宝)がある。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。
住所
北区紫野大徳寺町53
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