京都大学大学院 工学研究科 准教授
冨島義幸さんにきく
ー法勝寺の八角九重塔が建てられた岡崎は、どのような場所だったのでしょう?
「白河」と呼ばれた現在の岡崎地域は、当時から風光明媚な地として知られ、9世紀末頃から貴族の別荘が建てられました。都と東国を結ぶ東海道のルート上という交通の要衝にあたるこの地は、平安後期、政治の中心地として拡大します。そのキーパーソンこそ、藤原家による摂関政治をおさえ、院政を開始した白河上皇です。上皇は、献上された藤原家の別荘・白河院の地に法勝寺を建立し、その西側に造営された白河泉殿(北殿)という「院の御所」とともに、院政の拠点の一つとしました。その後、天皇や皇后により「勝」の字が使われた寺院が5つ建てられ、法勝寺と合わせて「六勝寺(りくしょうじ)」と呼ばれる巨大寺院群が出現します。
ー法勝寺の八角九重塔とは、どのようなものですか?
承暦元(1077)年に完成した法勝寺には、本尊を安置する金堂があり、その南側の池の中島にそびえ建つ塔が、巨大な八角九重塔です。再建された塔の高さは81メートルと記録にあり、現在の20〜27階建てのビルに相当します。さらには八角で九重という形式は他に例がなく、瓦葺の重厚な存在感を備えた、まさしく奇想の塔と言えます。
ー白河天皇はなんのために八角九重塔を建てたのですか?
院政を開始した白河上皇は、現在の岡崎の地に強大な権力を集中させ、新たな政治の拠点とする計画都市を作り上げました。法勝寺は「国王の氏寺」とも呼ばれ、ここに八角九重塔という巨大なシンボルタワーを造ることで、平安京に住む人々にその威勢を誇ったと考えられます。また、東国から都に入った旅人の目にも真っ先に八角九重塔が飛び込み、当世一の権力者の居場所を示したことでしょう。八角九重塔は、白河上皇の権力を象徴するモニュメントでもあったのです。
ー勝寺の八角九重塔は、その後どのような運命をたどったのでしょうか?
壮麗を極めた八角九重塔ですが、寛治5(1091)年と元暦2(1185)年に大地震にあいます。八角九重塔は傾いたり、瓦がはがれ落ちたりしましたが、倒れませんでした。そして承元2(1208)年には、落雷で塔自体が焼失。この後、塔はすぐに再建されますが、それも暦応5年(1342)の火事で焼失し、以降、二度と再建されることはありませんでした。応仁の乱後、六勝寺の大半の寺院も廃絶。現在、八角九重塔の跡は京都市動物園の中の地中に眠り、法勝寺町などの地名に名を残すのみです。
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